こんにちは、管理人のひかるです。
短編なのに、なんだかとても長い物語を読んだような余韻…
タイトルを超えて、自分の人生についてまで、思わず考えてしまう奥行き…
今回読んだのは、村上春樹さんの短編『ねむり』です。
読んでみた率直な感想は…

あれ?
オレって誰のために生きてるんだ?
です。
ネタバレ無しで、『ねむり』のあらすじを紹介した後、ネタバレ有りで考察していきます。
『ねむり』はこんな本(ネタバレ無し)
ドイツ人イラストレーターのカット・メンシックさんが絵を添えた、村上春樹さんの短編シリーズです。
過去の美しい表紙で、思わず手に取ってしまう装丁です。
こちらの4作品が、リリースされています↓
- 『バースデイ・ガール』
- 『パン屋を襲う』
- 『図書館奇譚』
- 『ねむり』
『パン屋を襲う』や『図書館奇譚』と同様、『ねむり』も数十年前に発表された短編です。
カット・メンシックさんのイラストを添えるにあたり、村上さんが加筆修正した新バージョンに仕上がっています。
『ねむり』はあらすじはこんな感じ↓
ある夜、主婦である「私」が寝ている足元に、不気味な老人が現れる。夢か現実か定かでないが、その夜をきっかけに「私」は眠れなくなる。何日も眠っていないのに、眠たくない。眠たくないどころか、集中力は上がり、肉体も若さ・美しさを取り戻す。小説を読みたい、お菓子を食べたい、泳ぎたい。何かが決定的に変わってしまった「私」に待ち受けるものは…
村上春樹さんの本って、要約すると味気ないものになってしまいがちです。
村上さん独特の文体・表現があってこそのストーリーだからですね。
それなのに『ねむり』はあらすじにするだけでも、けっこう興味をそそられる内容になっています。
というのも、村上さんが小説を書く気持ちになれない時期をブレイクスルーするきっかけになった作品が、この『ねむり』(と『TVピープル』)だったからかもしれません。
今読み返してみると、どちらの作品もそれぞれに、いつもの僕の短編小説に比べるといくぶんテンションが高いように感じられる。おそらくそのときの僕の心境が反映された結果なのだろう。しかしいずれにせよ、僕はこれら二つの短編小説を機に、もう一度小説家としての軌道に乗ることができたわけだ。
『ねむり』より引用
村上さん自身、『ねむり』のあとがきで、このように書かれています。
個人的には、村上さんのハイテンションを味わえるのは『パン屋を襲う』だと感じていますが(笑)
※『パン屋を襲う』のレビューはこちらです↓
『ねむり』の結末の謎を考察(ネタバレ有り)
ここからは『ねむり』の結末について、考察していきます。
大いにネタバレしますので、これから『ねむり』を読む方はご注意ください。
『ねむり』は不思議な終わり方をします。
眠れない「私」が深夜、車の中で考え事をしていると。2つの暗い影がドアを開けようとし、車を揺さぶってくる。「私」は動揺し、キーを回してエンジンを動かそうとしても、うまくいかない。
こんなシチュエーション。
そして…
私はあきらめてシートにもたれ、両手で顔を覆う。そして泣く。私には泣くことしかできない。あとからあとから涙がこぼれてくる。私はひとりで、この小さな箱に閉じ込められたままどこにも行けない。今は夜のいちばん深い時刻で、そして男たちは私の車を揺さぶりつづけている。彼らは私の車を倒そうとしているのだ。
『ねむり』より引用
「え?これで終わりなん?」という結末…
うーん、後味は悪いけど、逆に考察ははかどります(笑)
私なりに、このエンディングの意味を3通り考えてみました。
- 本当に男たちに襲撃されていた
- 「ねむり」を取り戻せた
- 人生を先取りしてしまった
の3パターンです。
本当に男たちに襲撃されていた
まず、二つの黒い影が、実在する男たちで、本当に「私」が襲われていたという結末です。
ストーリー後半で、眠れない「私」は深夜の埠頭で、職務質問をされます。
そのときに警察が、「私」に言います。
先月ここで殺人事件があった、と警察は言った。若いカップルが三人の男に襲われて、男性が殺され、女性は(略)
『ねむり』より引用
ラストシーンは埠頭ではなく、公園のパーキングですが、深夜に怪しい男たちがうろうろしていてもおかしくはありません。
眠れずに、ドライブしていた「私」は、男たちにひどい目に遭わされた…
埠頭のシーンが伏線になっていると考えることもできますが、「不眠で深夜に出歩くと危険だよ」という結末は村上春樹っぽくない(笑)
それに本当に襲うなら、車を揺らして、ひっくり返そうなんてしないはずです。
「ねむり」を取り戻せた
というわけで、ラストシーンの「二つの影」は実在する人物ではないと考えてみます。
では、「私」を襲う「二つの影」は何者なのでしょうか?
もう一人、現実か夢なのかわからない人物が、序盤に登場しています。
「私」が眠れなくなってしまうきっかけになった「老人」です。
老人は手に何かを持っていた。(中略)それは水差しだった。(中略)やがて彼はそれを上にあげて、私の足に水をかけはじめた。でも私はその水の感触を感じることができない。
『ねむり』より引用
「私」は金縛りのように動けなくなり、声にならない悲鳴を上げます。
その悲鳴が全身を駆け巡ったあと、「私」という存在は大きく変化してしまっていました(眠れなくなった)。
その時と逆のことが、最後のシーンで起こっているということです。
夢か現実かわからない存在に、精神を揺さぶられ、再び「私」という存在は大きく変化するのかもしれません(再び眠れるようになる)。
かつて「私」は大学生の頃に、「不眠症のようなもの」に悩まされます。
その「不眠のようなもの」は、ある日突然終わり、それまでの「私」に戻りました。
動揺に、ラストシーンを経て、「私」は眠れるようになり、日常に戻れるようになった。
というのが私が考えた結末の2つめの解釈です。
人生を先取りしてしまった
ただ、この2つ目の解釈は、途中のエピソードをすっ飛ばした都合のいい結末です。
「私」が眠れなくなったことで、どんな変化が起こったのかを踏まえて、結末の会社を考えてみたいとおもいます。
欲望が抑えられなくなった
眠れなくなった「私」は、高校生の頃に読んだ『アンナ・カレーニナ』を再読します。
時間を忘れて、小説の世界に没入し、ずっと読んでしまいます。
また、本に挟まっていたチョコレート屑を見たことをきっかけに、無性にチョコレートが食べたくなり、わざわざコンビニまで買いに出かけます。
そして、ガマンできずに、店から出た瞬間、チョコレートを食べ始めてしまいます。

私は日常的にやってますけど…
また、泳ぎたい衝動にも駆られます。
その結果、主婦である「私」は、20代の頃の美しい体を取り戻します。
それから私は自分が思ったより綺麗になっていることに気がついた。私は若返って見えた。(中略)私は鏡の前に座って、三十分ばかりじっと自分の顔を見ていた。いろんな角度から、客観的に眺めてみた。思いちがいではない。私は本当に綺麗になっている。
『ねむり』より引用
欲望を抑えきれなくなった「私」は、自分の望むことをして、美しさを取り戻したのです。
「私」は「消費」されていた
では、なぜ「私」は欲望を抑えこむようになっていたのか?
それは、大人になり、結婚し、子どもが産まれ、自分のために生きられなくなったからです。
歯科医である夫をサポートし、家事・育児に追われる毎日を過ごします。
料理や買い物や洗濯や育児、それらはまさに傾向以外の何ものでもなかった。(中略)私は靴の踵が片減りするように、傾向的に消費されていく。それを調整しクールダウンするために日々の眠りが必要とされる。
『ねむり』より引用
「消費」というのは、自分のためでなく、自分以外の何かのために自分がすり減っていく、ということでしょう。
つまり、「私」は夫・母という役割を担うことで、「消費」されていたと気づくのです。
高校生の頃は、夢中で本を読んでいたのに、おとなになってからは日常の雑事で本に集中して読むことはできなくなった。
歯科医の夫が甘いものを食べるのを嫌がるので、家にお菓子を置いていない。
自分で気づかない間に、自分以外の誰かのために、人生が「消費」されていたということですね。

おとなは心当たりが、ありまくりでは?
子どもを起こす前に洗濯機を回し、朝食を用意し、子どもが起きたら、登校・登園の用意…
洗濯、掃除、料理以外にも、お茶を作り、洗剤を補充し、エアコンフィルターを洗い、水回りのぬめりを取る…
家族のために有意義な何かを「生産」しているはずなのに、自分は「消費」されているのではないか…

「名もなき家事」っていっぱいあるやん
今まで通りに家族を愛せなくなる
自分が消費されていることに気づいた「私」は、一度寝ると起きない夫の寝顔を見る。
そこに「老い」と「醜さ」を感じてしまいます。
間違いなく夫は醜くなったのだ。顔にしまりがなくなってきた。それがたぶん年をとるということなのだ。夫は年をとって、そして疲れている。生活が彼をすり減らせている。これから先、間違いなく更に醜くなっていくだろう。
『ねむり』より引用
ひどいな(笑)
でも、夫も日常に「消費」されている一人なのかもしれません。
また、夫と寝顔がそっくりな息子にも、ひっかかりを感じるようになります。
そして、これから先、今まで通りに息子を愛せなくなってしまう予感に襲われます。
息子も、「私」を消費している一人なのですから。
眠れなくなったことで、「私」は自分の人生を見つめ直し、また、家族や周囲への見方も変わってしまったのです。
まぁ、家族に対する感情って変わってきちゃいますよね…
いつまでも天真爛漫で純粋無垢な2歳・3歳のわが子を愛するように、自我が芽生えた中学生・高校生のわが子を愛することは難しいでしょう。

「おとーしゃん、だっこ」と、いつまで言ってくれるか…
眠れない先にある「死」を考えた
自分の人生について考え直した「私」ですが、その先にある「死」も意識せざるを得なくなります。
また私はそのような正常ならざることをつづけている借りを、先になって返さなくてはならないかもしれない。人生はその拡大された分を――つまり私はそれを先取りしたのだ――あとで取り戻そうとするかもしれない。(中略)もし何かの加減で自分が早く死ななくてはならないのだとしても、とくに異存はなかった。
『ねむり』より引用
眠らずに、気力・体力をフル稼働させて、これまで「消費」されてきた自分を取り戻しつつある。
でも、それは未来を前借りしていることになり、もしかしたら寿命を縮めているのかもしれない。
「私」はそう自覚しているようです。
本来、眠りは、傷ついた体を修復する時間のはずです。
その時間に、集中力を研ぎ澄ませて、本を読み、泳ぎ、ドライブし、ブランデーを飲み、チョコレートを食べているのです。
体に良いわけがありません。
目を閉じてみた。そして眠りの感覚を呼び起こそうとしてみた。でもそこには覚醒した暗闇が存在するだけだ。覚醒した暗闇——それは私に死を想起させた。
『ねむり』より引用
恐怖を覚えた「私」は、ブランデーを飲み干し、車に乗り込みます。
そして、ラストシーンの公園のパーキングに向かいます。
そこで見た「二つの影」は、ただ単にブランデーが見せた幻覚なのか。
それとも思い巡らせてしまった「死」の予兆なのか…
私が考えた3つ目の解釈は、人生を先取りしてしまったために、早まった「死」でした。

飲酒運転、ダメ絶対
まとめ:[考察]村上春樹の短編『ねむり』人生を消費された末路は…【書評18】
結末を3パターン考えたと言いつつも、3つ目の解釈を力説しちゃいました。
私自身も、夫として、父親として、働き手として、何かに「消費」されている身です。
主人公の「私」もハッピーエンドでいてほしいという気持ちはあります。
みなさんは、『ねむり』の結末をどう解釈したでしょうか?